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1911
カーステン・ソルハイムがノルウェーの港町ベルゲンに生まれる
BERGENというパターはそういう意味で作られたんですね
左のパターはBERGENです |
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1913
両親とともに渡米し、シアトルに住む |
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1920
靴職人だった父親の仕事を手伝いながら、靴修理の技術を習得
ハイスクール卒業後、ワシントン大学の機会工学科に進んだが、大不況の影響で学生を一時断念し、父親の仕事を手伝うようになる |
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1941
アメリカの市民権を獲得 |
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1942
カリフォルニアの造船所で働きながら、カリフォルニア大学の公開講座で技術者としての訓練を受ける |
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1950
飛行調査技師などを経て53年単身ニューヨークへ、GE高等電子工学センターで設計技師となる
このころゴルフと出会う |
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1954
ポータブルTVセットのプロジェクト技師に昇進
カーステンが作った製品は200万台という空前のベストセラーとなる |
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1956
カリフォルニア州にあるパロアルトにある、コンピュータ部門に転出し、銀行業務のシステム開発にあたる |
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1958
GE勤務のかたわらレッドウッド市において最初のパター「1-A」を製作
左のパターはRedwood Cityで作られた1-Aです |
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1959
ガレージの中で新型パター製作用の鋳型を作る機会を購入するため1,100ドルを借入
毎日勤務後そして週末を利用してパター制作に没頭する |
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1961
GEのフェニックス工場に転任
新しいガレージに作業所を設け、これまでパター設計で学んだ理論を初めてアイアンに応用
鋳造の未加工ヘッドを購入し自身の平削り機でヘッドの裏側に溝を彫った
このころはヘッドの軽量化のみを目的としており、ヘッドの大型化は考えていなかった
第一のねらいはヘッド重量を軽くすることで、軽いクラブこそあらゆるレベルのプレーヤーに向いていると考えていた。ピンアイアンはすべて男性用でC8、女性用ならC6程度のスイングウェートに仕上げていた
第二のねらいは、パター作りから学んだ理論、つまり重量をできるだけ中央から外に再配分することで、飛距離と方向性が(ことに芯をはずしたときに)得られるはずとにらんだから
69こそ達成したいスコアということでこの最初のアイアンを「69」と命名
左の写真は69 Ironです |
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1963
最初のアイアン「69」を改良し、一歩前進したということで68と命名
デザイン的にはバックフェースのえぐれがより大きくなっている
左の写真は68 Ironです |
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1965
「ANSER IRON」完成
68同様バックフェースに大きなキャビティ部分があり、ソールには1〜9までの番手、PW、SWと彫られている
こうした試作品がベースとなってのちにKARSTEN Iが誕生する
ちなみにこの年にTOSHI生まれる
左の写真はAnser Ironです |
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1966
独自の「トウ・ヒールバランス」理論を具現化したパターの名器「ANSER」を生み出していく
ピンパターの売上が年間5万ドルを超える
左の写真はScottsdale Anserをもつ若き日のKarsten Solheimです |
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1967
KARSTEN MANUFACTURING CORPORATION創業のため14年間勤務したGE社を辞め、ゴルフクラブ製作に専念 |
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1968
Tom WatsonやSeve Ballesterosが「ANSER」、Jack Nicklausが「ANSER 2」を使用するなどツアーでピンパターが大ブームになる
「トウ・ヒールバランス」理論がゴルフクラブ製造業界の重要な革命的コンセプトとして位置づけられた
左の図は、1-Aの設計図です
ここでToe-Heel Balanceが生まれました |
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1969
鋳造キャビティアイアン第一号「KARSTEN I」を発表
左の写真はKarsten Iです |
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1970
ロストワックス(鋳造)製法によるアイアンの本格的な量産を開始
一躍ゴルフ用品回のトレンドメーカーとして認識される
ヘッドスピードをさらに増す流体力学(Aero Dynamism)設計のウッド「PING KARSTEN I」の商業生産を開始
ロストワックスの元になる型の写真です |
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1972
個々のゴルファーに最適のライ角を設定でき、スライスとフックを防ぐのに役立つ「カラーコード方式」を採用したアイアンの製造を開始
フェニックスの精密鋳造会社ドルフィン・インダストリー社を買収し、アイアンとパターだけではなく、航空宇宙その他、工業製品の精密部品製造も行われるようになる |
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1975
ステンレスヘッド素材「17-4PH」を選定
鋳造後、研磨加工する前の熱処理に独自の手法を持つSONEE熱処理会社を買収
この年から業務拡大のためボールの製造に着手する
ウッド「PING KARSTEN II」を発表 |
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1976
ウッド「PING KARSTEN III」を発表
その後「III」、「IV」と続く |
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1977
全米市場向けにボールの販売を開始
79年秋をめどとして日本市場向けにスモールサイズの生産を開始する
毎回完璧な人間のゴルフスイングを再現するコンピュータ操作のロボット「PINGMAN」創作
以後クラブ及びボール性能試験用に活用される
ヘッドカバーやゴルフバッグなど様々なオリジナルのアクセサリ品種が拡大してくる
この頃から世界のトップメーカーがこぞってキャビティバックのアイアンを作るようになり、一大ブームに
左の写真はPINGMANです |
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1978
カーステン社の売上は増加を続け、従業員数も400名を超える
左の写真は平削り機の前でヘッドを削るKaresten Solheim氏です |
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1979
「KARSTEN III」のソールをさらに進化させたアイアン「EYE」を発表
キャビティバック部分に初めて「目」が入った
すでにPGAツアーで多くのプロが使用しているパター「B60」の市販を開始
柔らかな感触と狙い易さで好評を博す
続々とパターのヒットモデルを誕生させるかたわら、独自の「エアロダイナミクス」設計と「トウ・ヒールバランス」理論をさらに進化させた合板ウッド「PING
EYE」を発表
左の写真はPING EYEです |
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1982
歴史的名器「EYE2」(当時はV溝)誕生
左の写真は79年に発売されたB60です |
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1984
「アイ2」(U溝)が空前の売り上げを記録し、のちに溝問題が勃発するまでロングセラークラブとしての地位を確率
ロストワックス製法が一般化したため、R&AがV溝、U溝、各溝のルールを改正
左の写真はPING EYE2です |
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1988
Tom Watsonらが、「EYE2」はアンフェアだと批判し、溝論争に火がつく
USGA、R&A、PGA Tourこもごも論争に参加
カーステン社長がホワイトハウスに招かれ、輸出貢献企業に与えられる「E」賞をレーガン大統領から授与される |
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1989
溝論争が深刻化、USGAを相手取り独禁法(アンチトラスト法)違反で、損害賠償を起こす |
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1990
溝規定をクリアした「アイ2プラス」を発表
USGAと和解USGAは「アイ2」を規則適合クラブ富と目、カーステン社側は規則に抵触していた「アイ2」の生産を打ちきることで合意
第一回ソルハイムカップがフロリダ州レイクノナGCで開催される(米国優勝)
左の写真はSolheim Cupで表彰するKarsten Solheimです |
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1991
引き続き輸出に多大な貢献があったとして、ブッシュ大統領から今度は「E-STAR」賞を授与される
長尺パター「B-90」発表
左の写真はB-90です |
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1992
4月により斬新なモデル「ZING」が世界同時発売される
第二回ソルハイムカップがスコットランドのダルマホイで行われ欧州優勝
左の写真はZINGです |
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1993
4月に「EYE2」の溝問題でUSPGA Tourと和解成立
パターの5KS Series発表
左の写真はANSER 5KSです |
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1994
4月新作アイアン「ZING 2」と同時に。カーステン社発のメタルウッド「ジング2」発表
パターのBZシリーズ発表
左の写真はZING 2です |
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1995
4月「ZING 2」カッパー・ウェッジシリーズ6本を発表
6月三男のジョン・ソルハイムが社長に就任、カーステンは会長となる
左の写真はJohn Solheimです |